佐竹氏は、平安時代の名門新羅三郎義光の後裔である。
義光は清和源氏の正統源頼義の第三子で八幡太郎義家の弟にあたる。
義光の孫 昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸市)に土着して佐竹氏を名のる。 土着の年代は天承元年(1131年)とされる。
昌義の子、忠義、隆義兄弟のとき近くの太田に移り、嫡長子の隆義が太田城に入ってその経営を始めたという。
隆義が太田城に入った年代は明らかでないが、以来太田城は、二十一代義宣が天正19年(1591年)3月府城を水戸へ移すまで四百数十年間 佐竹歴代の本拠となった。
ところで、義宣の父義重の代は 群雄割拠の戦国時代であり、義重は陸奥の南郷や会津に勢力をのばし佐竹氏の存在が中央に着目されてくる。
次代 義宣は、17歳で家督をつぎ小田原参陣以降太閤秀吉のおぼえもめでたく54万石の領土を安堵され全国で第八位の大身として、佐竹氏の地位は確固たるものであった。
しかしながら秀吉の死後時流は移り、徳川家康の台頭はめざましく慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いが起こった。
この戦いでの義宣の態度は、家康には日和見的な危険な存在との印象をあたえ、戦後処理には容赦なく慶長7年(1602年)に秋田への国替を突然申し渡した。
このとき石高の明示はなく正式に20万5千石の石高が決まったのは、次代 義隆のときであった。
いずれにしろ以降、明治維新までの約260年にわたる佐竹氏の秋田藩統治が始まったのである。
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